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神戸町 家康にまつわる民話
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■神戸町 白山神社■
関ケ原合戦があった慶長5年(1600年)、
家康は岐阜城が東軍の攻撃によって落城したと聞き、
9月1日江戸を出発して、小田原、清州を経て、
13日には岐阜城に入って、
14日には赤坂へ向かって進軍したとされています。
この地域には、家康が岐阜城を出て14日に赤坂に着陣するまでの
道中に起こった出来事として、郷土の民話に言い伝えられている話が
2つあります。
まずひとつは、関ケ原合戦の前日9月14日、
岐阜を早朝に出発した家康の軍は、
長良川を渡り岐阜市木田(きだ)から中山道を
本巣市席田(むしろだ)に進み、
神戸町の白山神社で休憩、その折、松の大樹に旗を懸けました。
以後、その松をこの地域では『旗懸けの松』と呼びました。
また、そのときに神戸町八条の禅宗瑞雲寺の住職が大きな柿の実、
一折を献上したところ、家康は「大柿(大垣)はわが手に入れり」と、
大垣にいた三成を指して言い、甘柿にも関わらず「ああシブかった、シブかった」、
(四部勝った、四部勝った、合わせて、八部勝った)と言ったとされています。
もう一つは、先ほどのお話とは全く趣が違っていまして、東軍の家康の軍が、
西軍の総司令部があった大垣を通過するにあたり、
3万余の軍勢は中山道の岐阜市河渡(ごうど)を渡り、瑞穂市
呂久(ろく)をとおり赤坂へ向かわせ、自らは500騎ほどの精鋭を率いて
厳重に周囲を警護させ、東山道の岐阜市木田(きだ)の渡しを越えて、
本巣郡北方(きたがた)から神戸へ入ろうとしました。
その際、島津軍の鉄砲隊長、川上久林が率いる200名ほどの襲撃を受け、
命からがらこの白山神社に落ち延びたというお話なんです。
このお話は、のちに天下人となる家康には不都合であったので、
威厳を保つために箝口令(かんこうれい)が布かれ、
歴史上から削除されたのではないかとも言われています。
この民話の内容を説明した看板を、昨年「白山神社」に設置しました。
また、関ヶ原合戦広域ガイドマップにも掲載されていまして、
他の史跡とあわせて巡られるようになりました。
・白山神社までのアクセス方法
養老鉄道広神戸駅下車、徒歩15分。
自家用車でお越しの場合は、名神高速道路大垣インターから
国道258号線を北上していただき、神戸町役場西の町道を北へ
向かっていただきますと、白山神社への誘導ポールがたっているので
目印にお越しください。
詳しくは、神戸町HPを、ご覧ください。